
「合格する小論文」シリーズ著者、
中塚光之介先生とかんき出版がコラボした
「
合格する小論文添削
」サービスの、AIを使った無料お試し版です。
解答を入力すると、観点別スコアと助言コメントが表示されます。
次の文章を読んで、後の問に答えなさい。
それはさておき、腰ばきの男の子のひとりに直接、私の疑問をぶつけたことがあります。「君、そんなズボンのはき方をしてて、気持ち悪くないか」と。もちろん、見ず知らずの若者ではありません。彼はいつも渋谷の雑踏のなかで居酒屋の割引チケットを配っており、散歩中の私と顔見知りになっていました。いつぞやは私が路上に資料を散乱させたことがあり、拾い集めるのを手伝ってくれました。
(中略)
そんなある日、人波が途切れ、彼が手持ち無沙汰な様子の時、私は彼の袖をつかみ、かねてからの疑問を口にしました。
「そのズボン、はき心地悪くないの?」
彼はポカンとしています。それはそうでしょう。顔見知りとはいえ、ジジイに唐突にされる質問ではありません。
しばらく考えて彼はいいました。
「はき心地がいいとはいえないですよ」
「だったら普通にはけばいいじゃないか。そっちの方が楽だろ」
「うーん」
彼は本格的に考え込んでしまいました。縁石に座ったので、私も付き合いました。
「やっぱりみんながそういうはき方をしているからじゃないつスかね。自分だけ違うと仲間といっしょにいても居心地が悪いというか。みんなと同じだと疲れないんです」
彼は見かけは別にして、きちんと敬語も使えるし、「ら」抜き言葉でもありません。話していてもなんら不快感を覚えない(むしろ彼の方が不快感を覚えているかもしれない)。饒舌でこそありませんが、本音を語ってくれているようでした。なぜ腰ばきするのか当の本人にも確たる理由はないのです。
それはルーズソックスやミニスカートでも同じことでしょう。自分の好みや価値観ではなく、みんなと同じでいたい、同じだととりあえず、心の安寧を得ることはできるのです
(中略)
若者がダサくなった大きな要因として真っ先に浮かぶのは戦後の教育です。ファッションと教育というと無関係なものに感じますが、その時々の教育や教育制度は人間の活動のすべての事柄に多大な影響を与えるものです。まして年端もいかない幼少期にたたき込まれるのだから、その影響力たるやハンパなものではありません。長じてからの男と女の付き合い方、他人との接し方、親や年長者との付きき合い方、そしてファッションも教育の影響を受けます。
その教育とは。
ひとことでいえば、「みんな同じ」ということでしょう。戦後民主主義教育の金科玉条が平等です。
みんな平等に。それ自体は決して悪いことではありません。当たり前すぎて反論の余地もないような立派な言葉です。
しかし、私は思います。「みんな平等」が「みんな同じ」になっては困ります。人間にはそれぞれ個性があり、もって生まれた才能があります。その個性や才能は、「みんな同じ」の前にスポイルされてしまいます。「同じ」ではないから個性や才能というのではないのでしょうか。
笑い話があります。これがホントかウソかは分かりませんが、ある幼稚園では運動会の駆けっこで全員が手をつないでゴールするのだそうです。一着、二着を決めないのです。結果についてすら「みんな平等に」しようと思うと、そういうことになります。駆けっこだというのに足の速い子はあらかじめスポイルされているわけです。足が遅い子も同様にスポイルされています。
一事が万事、こういう教育が施された子どもたちはどうなるでしょう。「おれは足が速いな」と思っていても、それはよくないことだと封印してしまいます。足が速いことを恥じる子さえ出てくるでしょう。つまり自の個性や才能をひた隠しにしてしまうのです。
堀田力『「人間力」の育て方』集英社新書2007年
(問題作成の都合上、適宜修正しました)
(中略)
そんなある日、人波が途切れ、彼が手持ち無沙汰な様子の時、私は彼の袖をつかみ、かねてからの疑問を口にしました。
「そのズボン、はき心地悪くないの?」
彼はポカンとしています。それはそうでしょう。顔見知りとはいえ、ジジイに唐突にされる質問ではありません。
しばらく考えて彼はいいました。
「はき心地がいいとはいえないですよ」
「だったら普通にはけばいいじゃないか。そっちの方が楽だろ」
「うーん」
彼は本格的に考え込んでしまいました。縁石に座ったので、私も付き合いました。
「やっぱりみんながそういうはき方をしているからじゃないつスかね。自分だけ違うと仲間といっしょにいても居心地が悪いというか。みんなと同じだと疲れないんです」
彼は見かけは別にして、きちんと敬語も使えるし、「ら」抜き言葉でもありません。話していてもなんら不快感を覚えない(むしろ彼の方が不快感を覚えているかもしれない)。饒舌でこそありませんが、本音を語ってくれているようでした。なぜ腰ばきするのか当の本人にも確たる理由はないのです。
それはルーズソックスやミニスカートでも同じことでしょう。自分の好みや価値観ではなく、みんなと同じでいたい、同じだととりあえず、心の安寧を得ることはできるのです
(中略)
若者がダサくなった大きな要因として真っ先に浮かぶのは戦後の教育です。ファッションと教育というと無関係なものに感じますが、その時々の教育や教育制度は人間の活動のすべての事柄に多大な影響を与えるものです。まして年端もいかない幼少期にたたき込まれるのだから、その影響力たるやハンパなものではありません。長じてからの男と女の付き合い方、他人との接し方、親や年長者との付きき合い方、そしてファッションも教育の影響を受けます。
その教育とは。
ひとことでいえば、「みんな同じ」ということでしょう。戦後民主主義教育の金科玉条が平等です。
みんな平等に。それ自体は決して悪いことではありません。当たり前すぎて反論の余地もないような立派な言葉です。
しかし、私は思います。「みんな平等」が「みんな同じ」になっては困ります。人間にはそれぞれ個性があり、もって生まれた才能があります。その個性や才能は、「みんな同じ」の前にスポイルされてしまいます。「同じ」ではないから個性や才能というのではないのでしょうか。
笑い話があります。これがホントかウソかは分かりませんが、ある幼稚園では運動会の駆けっこで全員が手をつないでゴールするのだそうです。一着、二着を決めないのです。結果についてすら「みんな平等に」しようと思うと、そういうことになります。駆けっこだというのに足の速い子はあらかじめスポイルされているわけです。足が遅い子も同様にスポイルされています。
一事が万事、こういう教育が施された子どもたちはどうなるでしょう。「おれは足が速いな」と思っていても、それはよくないことだと封印してしまいます。足が速いことを恥じる子さえ出てくるでしょう。つまり自の個性や才能をひた隠しにしてしまうのです。
堀田力『「人間力」の育て方』集英社新書2007年
(問題作成の都合上、適宜修正しました)
添削中です…しばらくお待ちください。30秒ぐらいかかりますのでリロードはしないでください。